またね。その約束を私は果たせたのか

またね。その約束を私は果たせたのか
事務所の近所にはそれなりに広い公園がある。
昔は大きな滑り台や砂場、ジャングルジムといった遊具が多くあり子供たちでにぎわっていたが、その遊具たちも老朽化や管理者が変わったことで半分以上が撤去され一部は駐車場となった。
それでも今なお、子供たちの遊び場であり高齢の方たちの話し場になっている。
この公園には防災行政無線が設置されている。夕方の子供たちの帰宅目安にチャイムが流れるあれだ。17時になりチャイムが流れると、「〇〇君またね」「〇〇ちゃんまたね」という元気のいい声が聞こえる。普段なら「元気がいいな。」と心で小さくつぶやくだけだが、その日は違った。
気付くと小学生の頃に仲が良かった1人の友達のことを思い出していた。当時はスマホなんてものはなかったから、下校帰りに遊ぶ場所と集合時間を約束したり、友達の家に電話したり、いきなり友達の家へ凸ったり。夏休みは毎日のように遊んでいた。
そして私も幾度となく繰り返してきた「〇〇君またね」という言葉。
そんなふうに物思いにふけっていると、私の中で疑問が生まれた。はて?あいつと最後に遊んで「またね」と言ったのはいつだろう。そして、その「またね」という約束を私は果たせたのだろうか。と。
まもなくして、これらを思い出すことは”そいつとの友達関係が終わりを迎える瞬間を思い出すこと。”と同義であることに気付き、私の心は締め付けられた。
残念ながら何度も記憶を遡ったが思い出すことは出来なかったし、かなりの確率で「またね」というその約束は果たせていないだろう。例えばクラス替えをすれば人間関係は一掃され新しい友達ができる。1年生から6年生までの成長過程で好きな事や物が変われば、遊び方や遊ぶグループも変わるだろう。
そうして気付くと、あいつの姿がない。
こうして「またね」という約束は霧の向こうへ静かにひっそりと消えていく。
子供の頃は明日会えることが当たり前で無邪気に「またね」といえていた気がする。大人になった今では「またね」という言葉の儚さや建前のようなものが混じり、子供の頃ほど無邪気に「またね」とはいえていないだろう。子供の頃ほど確約された「またね」ではないだろう。
それでも何かの縁で繋がった人へ「またね」という言葉を私はいいたい。この言葉は、その人との関係が凝縮されているステキな言葉のような気がしてきたからだ。
成長や置かれる場所によって友達関係・人間関係は変わっていく。
もしまた会えたとしたら、今でも私のことを友達と思ってくれるのだろうか。